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障害物知覚メカニズムの解明に関する研究

概要

 盲人の中には手で触る前にあるいは身体が接触する以前に壁や柱などの物体の方向や距離を見事に当てることができる人がいる.このように,音を出さない物体の空間的位置を探知する感受性のことを従来より障害物知覚(obstacle perception)と呼んでいる.
 もちろん,「障害物」という言い方は厳密に言うと適当ではない.むしろ,反射音定位(reflected sound localization),あるいは音響的物体知覚(acoustic object perception)とでも定義すべきである.なぜなら,障害物知覚は聴知覚の一側面であることが現在明らかになっているからである.
 以前は,障害物知覚は未知の感覚であった.障害物知覚の記述は古い.18世紀のフランスの哲学者ディドロが「盲人に関する手紙」の中で既に盲人の周囲を感知する能力について記述している.それ以来,障害物知覚に関するいくつかの仮説が出された.

・感覚鋭敏説
 聴覚系の感受性が晴眼者よりも高くなった(つまり閾値が低くなった)結果,盲人は晴眼者には聞こえない音をも感じることができるという説である.いわゆる「盲人は耳がよい」という世間一般の常識につながる説である.これはもっともらしい.しかし,現在までの研究により,盲人は晴眼者に比較して,聴力が優れている(つまり,聴覚的感受性が鋭い)という証拠はない.さらに,障害物知覚は盲人に固有の知覚ではなく誰もが獲得可能な知覚能力であることも示唆されている.
 
・認知説
 盲人は視覚が利用できないために,残存感覚からの手がかりを認知的に統合する能力に優れているという説である.これまでの研究では,問題解決課題において晴眼者よりも盲人の成績が優れているという証拠はない.
 
・オカルト説
 盲人には晴眼者にはない磁気感覚や電気感覚などの未知の感覚つまり第六感が備わっているという説である.いまだこれらの盲人に特有の感覚が発見されたという研究はない.
 
・障害物知覚は聴知覚
 1950年代の研究により障害物知覚は音を利用した空間知覚であることが明らかになった.1つ,実験例を紹介する.
 盲人に壁に向かって歩いて近づいてもらう.そして,何かあると思った所で停止することを求める.この課題を盲人は容易にこなした.しかし,耳を覆ってしまうと彼らは壁の直前で停止することができず,衝突してしまったのである.
 

障害物知覚には音源からの到来する音波が必須となる.障害物知覚を可能にする音源は大別して2種類となる.

1 環境音
 観察者の周囲にある音である.読者の周りにはどのような音があるであろうか?耳を澄まして聴いてみて欲しい.まず,聞こえて来るのは眼前のコンピュータのファンの音かもしれない.また,周囲にあるプリンターの音も耳に入って来るかもしれない.耳が慣れて来ると,さらに遠くの音やかすかにしかしていない音にも注意ができるようになるのではないであろうか.窓の外を走る車の音,梢の鳥の声,足音,または,雨が地面をたたく音,松籟をわたる風の音などなど.実は我々の周囲はたくさんの音によって満たされているのである.これらの環境音は盲人にとって障害物知覚を可能にする重要な音源となり得るのである.
 
2 自発音
 我々は生活の中で様々な音を自ら発している.音声はその代表例であろう.自ら発する音(自発音)は環境音にはない利点がある.

・音の性質を変化させることができる:音の高さ,音の大きさなどの音の性質を変化させることが可能である.
・音の発信間隔を変化させることができる:音の時間間隔を自由に変化させることが可能である.

 自発音を用いて環境を探知している動物種の代表は,コウモリとイルカである.彼らは,人には聴取することのできない高い周波数の音(超音波)を自発音として発し,それが物体に反射して到来する反射音を感受している.その一連の行為ー知覚循環により,周囲の物体を空間定位し,物体の特性までも特定している.
 自発音の反射波を利用して物体を定位することをエコーロケーション(echolocation)という.実は盲人もエコーロケーションを利用して環境を探知している.つまり,エコーロケーションにより障害物知覚を行っている.例えば,足音や白杖の「コツコツ」というタッピング音はエコーロケーションによる障害物知覚の主要な自発音となる.
 

1 遮音
 物体が音源からの音を遮音することにより音圧が減少する.これが,物体の定位に利用される情報となる.

2 直接音と反射音の時間遅延
 音源から発せられた音は,直接耳に到来すると共に,被発音体により反射されても到来する.前者が放射音(radiant sound)であり,後者が反射音(reflected sound)である.
 放射音と反射音とが耳に到来するまでの時間は反射物体と観察者との距離により変化する.放射音に対する反射音の時間遅延は反射物体までの距離が近ければ短くなり,遠ければ長くなる.放射音と反射音との時間遅延はいくつかの音響心理特性の基因となる.
 
3 放射音と反射音との音圧差
 反射物体と観察者の間の距離,あるいは反射物体の表面の材質に応じて,放射音に対する反射音の音圧は異なってくる.この音圧差の距離により変化は,反射物体までの距離を特定する音響情報となる.
 

1 遮音により生じる心理的特徴
 物体が音を遮ることにより音圧が減少し,結果的に,静かになったような印象をもたらす.

2 放射音に対する反射音の遅延時間により生じる心理的特徴

・先行音効果
 放射音に対する反射音の遅延時間が十分に長いと,2つの音は明確に分離して聞こえる.ちょうど,山々に反射して聞こえる山びこのように.遅延時間が短くなってくるにつれて,2つの音は徐々に融合していく.そして,ある遅延時間(エコー感知限)を超えると,それまで2つに分かれて聞こえていた音像が完全に1つになる.しかも,その音像の定位する方向は先に耳に到来した音源の方向に移動する.これが先行音効果である.明確に分離していた音像は,放射音の方向に移動し,反射音は聞こえなくなる.そして,反射面がある方向には,「圧迫感」を感じる.

・カラーレーション
 音源から放射された音波は反射物体により反射され放射音と重なる.この時,放射音波と反射音波とが位相干渉を起こす.結果的に,放射音に対する反射音の遅延時間の逆数に対応するピッチを基本周波数とする一種の複合音が反射物体の方向に聞こえることになる.聞こえるピッチは反射物体に近づくほど高くなることから,観察者と物体との距離を特定する有力な情報になると考えられる.
 

研究

 直立姿勢の維持には体勢感覚が重要だと想像されるかもしれない.しかし,1970年代にエディンバラ大学のDavid N. Lee博士が天井からつるされた部屋を使用した実験により,ヒトの姿勢制御には景色の動き(光学的流動)が大きな役割を果たしていることが明らかとなった.
 では,「音の景色」の動き(音響学的流動)が姿勢の維持に果たす効果はあるのだろうか?
 盲人は障害物知覚により物体までの距離を特定している.では,障害物知覚の音響物理的特性を操作することにより反射物体(壁面)が実際に存在していなくても,「あたかも壁面が存在しているかのように」知覚させることができないであろうか?つまり,音のバーチャルリアリティによる仮想壁の提示である.これを可能にする装置を産業総合技術研究所の関喜一博士が構築した.仮想壁提示装置を用いて,盲人の姿勢制御に果たす障害物知覚の役割を現在,研究中である.障害物知覚が可能な盲人には,Lee博士が発見した現象と同様の姿勢の動揺が現れた.伊藤・関はこの現象を「聴覚性運動(auditory kinethesis)」と命名し,継続的に研究を行っている.詳細は業績を参照.

応用の可能性
 障害物知覚が可能な盲人には姿勢の動揺が現れたが,障害物知覚ができない人にはこの現象が現れなかった.このことから,「聴覚性運動」は障害物知覚の有無の指標となりうると思われる.この現象をつぶさに分析することにより,障害物知覚学習の程度を客観的に測定することも可能になると期待できる.
 

盲人の全てに障害物知覚が可能なわけではない.つまり盲人だからといって必ずしも障害物知覚ができるわけではないのである.このような差異はどのようにして生じてしまうのであろうか?
 伊藤と関はこの疑問に対する解答を得るべく,障害物知覚の学習課程の解明に関する研究を行おうとしている.

応用の可能性
1 訓練プログラムの開発
 障害物知覚の学習課程が明らかとなれば,その課程を促進するように訓練プログラムを構築することができる.これにより,中途失明者のリハビリテーション訓練に障害物知覚訓練を組み入れることが可能となる.また,先天性盲人の特別支援教育においても生活訓練の一環として障害物知覚学習プログラムを導入することも可能となる.
 
2 感覚代行器機の開発
 さらに,障害物知覚を容易にするような聴覚補助具の開発にも応用が期待できる.

知見の応用の結果
 訓練プログラムや感覚代行器機の開発が実現されれば,盲人は安全に外出することが可能となり彼らの生活の質(QOL)も向上すると確信している.