□北海道障害学研究会 2007.11.1 於:はこだて未来大学

 

当事者が決める/当事者という権威を疑う

 

倉本智明

 

 

1.当事者とは誰か

 

1-1 「当事者」概念の多義性

  文脈により指し示される対象は異なる

 

 a.狭義の当事者と広義の当事者

  狭義……当該主題にかかわって被害や不利益を被る者、ないしは、状況改善のための

   ニーズを有する者

  広義……当該主題に関係している者

   (一見「第三者」とみえる者が問題の発生・様相に影響をおよぼしていることもあ

    る cf:いじめにおける傍観者の役割)

 

 b.他者による規定 VS 自身による名のり

 

 c.客観的規定と主観的規定

  →境界線は流動的

 

1-2 障害者問題の「当事者」とは

 

 a.一般的な用法(狭義の当事者)

  当事者=障害者本人

 

 b.拡張された用法(もうひとつの狭義の当事者)

  本人ではないが、障害者の近くに居たり、親しく交流をもつことで不利益を被ったり、

  ニーズを有することとなる者 cf:障害者の家族

  【!】障害者本人が被る不利益や有するニーズは、家族などのそれと重なり合うこと

  もあれば、正反対の方向を向くこともある。場合によっては、本人に不利益を強いた

  り、ニーズを隠蔽する役割を果たすことも。

 

 c.障害者問題の発生に関与するすべての者

  →障害者問題を社会問題としてアピールし、解決をはかるために不可欠な視点

2.当事者主権という考え方とその具現

 

2-1 当事者主権とは

 

 a.ここでいう「当事者」

  「ニーズをもった時、人は誰でも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、

  当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。だからニーズに応じて、人わ誰

  でも当事者になる可能性をもっている。

   当事者とわ、『問題を抱えた人びと』と同義でわない。問題を生み出す社会に適応

  してしまってわ、ニーズわ発生しない。ニーズ(必要)とわ、欠乏や不足という意味

  からきている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足と捉えて、そ

  うでわない新しい現実をつくり出そうとする構想力をもった時に、はじめて時分のニー

  ズとわ何かがわかり、人わ当事者になる」

               (中西正司・上野千鶴子『当事者主権』岩波新書 2003年)

     ↑

  主体性の強調

 

 b.当事者主権の核心(1)−−自己定義権

  自分とはどんな存在であるか、なにを欲しているかについて自ら定義する

  (他者から押しつけられる定義・イメージへの抵抗)

     ↓

  自分とはなにものか、をめぐる政治

 

 c.当事者主権の核心(2)−−自己決定権

  自身に関する事柄は自身が決定する

     ↑

  but 他者も同様に自己決定する権利を有しているのであり、これを侵害しないこと、

  調整をはかることが求められる

 

 ・自己決定の基本要件

  i)選択肢が存在すること

  ii)情報が提供されていること、および、リテラシーの獲得

  iii)強制・誘導がないこと

     ↑

  完全なる自己決定など幻想にすぎないが、可能な限りその極大化をめざすこと、その

  ための操作的要件を確定することは可能

 

  【!】文脈にもよるが、「○○については××におまかせします」「流れにまかせよ

  う」というのもひとつの自己決定

 

2-2 当事者主権の確立−−自立生活運動を事例に

 

 a.自立生活運動とは

  自己決定することの可能性を最大化するための生活様式の確立・確保をめざす運動

          ↓

  家族のもとや施設を離れ、介助者を入れて地域でくらす生活スタイル(自立生活)

  【!】このスタイルが唯一であるわけではない

 

 b.自立生活を支えるしくみ

  アテンダント、自立生活プログラム、ピアカウンセリング、アドボカシー etc.

 

 c.専門家支配への抵抗

  ≠専門家否定

 

 d.日本における自立生活運動の展開

  観念論からシステム志向へ

 

 

3.当事者という権力

 

3-1 当事者であることの権力性

 

 a.権力とは

  相手の意図に反した行為をなさしめる力、および、意図の顕在化を阻止する力、およ

  び、意図そのものを抱かせなくする力

 

 b.当事者という権力への反発

  「バックラッシュ」として切り捨てていいのか?

 

 c.当事者であることが権力となる要員

  i)政治的・経済的影響力の拡大

  ii)道徳的強迫

 

3-2 権力の両義性

 

 a.権力構造の組み替え−−介助関係を事例に

  互酬性と介助関係の非対称性

  善意から労働へ、サービス受給者から消費者へ

 

 b.本人のことは本人にしかわからないのか

  真理の不可知性と自己決定の合理性

 

 

4.障害学の担い手をめぐって

 

  「私は以前、障害学は障害者のものだと考えていました。けれども、最近はちがうふ

  うに考えています。障害学というのは、障害/健常にかかわる問題を、単なる知的好

  奇心の対象としてではなく、自分自身の問題として受けとめ悩むこと、時に楽しむこ

  とのできる人すべてのものです。障害者であることで不利益を被ったり、しんどい思

  いをしている者だけでなく、健常者という社会的立場にむりやり押し込められること

  に息苦しさをおぼえる人なども障害学の担い手たりえます。障害者に限らず、健常者

  も障害学の主体になりうるということです。

   見える景色というのは、それぞれの人のいる場所によって異なってきます。同一人

  物でも、立ち位置を変えれば、眼前の風景はさきほどまでのものとはちがってくる。

  これは、学問といえど同じです。自分がどこにいるかを抜きに、客観的・中立的な回

  答を出すことなんて誰にもできやしない。結局、みんな、どこかの場所から見た風景

  について語っているにすぎないわけです。でも、だから意味がないのではなくて、世

  界はそのようにしてしか語ることができないことを知った上で語る、これが大切なん

  です。私たちは、どうあがこうがどこか特定の場所に立って、そこから見える範囲で

  しか世界について語ることはできない。だとしたら、いろいろな場所にいる人のいろ

  いろな風景をつきあわせるなかから世界の全体像を浮かび上がらせるしかありませ

  ん。しかし、そのためには、自分の居場所というものをはっきり自覚する必要があ

  る。これこれこういう場所からはこう見える、と語らないと突き合わせのしようがあ

  りませんから。

   実際、これまでの障害研究というのは、大半がある特定の地点から眺めた景色を描

  いたものにすぎなかったわけです。自分たちにとっての『常識』が普遍のものである

  ことをナイーブに信じた健常者わけても専門家とよばれる方々の立つ場所から見える

  風景、これがほとんどすべてだったわけです。しかも、専門家の方々は、ある場所か

  ら見えた風景――より厳密には、描き手の色彩感覚や印象をくぐりぬけた風景画――

  にすぎないものを、唯一無二の真実であるかのように提示してきた。これは致命的に

  まずい。自分たちが社会のなかでどういうポジションにいて、そこから見える景色は

  どういった特徴をもつのか、他のポジションにいる人びととどのような関係をとりむ

  すぶことになるのか、そのことがまったく自覚されていないからです。先ほど、私は

  健常者でも障害者でも障害学はできると言いました。しかしそれは、誰でもが障害学

  の担い手になりうるという意味ではありません。自分がいま、どこにいるのかについ

  て自覚できない者、しようとしない者には障害学はできない。もちろん、最初から

  『ここです』とはっきり言える必要はないでしょう。むしろ、それは障害学をしてい

  くなかでわかってくることでしょうから。しかし、可能な限りそれを見極めようとす

  る姿勢は必要だと思います。

   健常者の方が、『自分も障害学しようかな』とお考えになられる、これは大いに結

  構です。歓迎いたします。ただし、そのとき、自分がいま、この社会においてどうい

  う位置にいるのか、そのことについてまず考えていただく必要があるということで

  す。たとえば、私がごはんを食べるとき、箸がうまく使えず緊張しているということ

  をあなたは知らない。知らないことがわるいわけではない。しかし、自分は知らない

  んだということを知らずに、『常識』をそのまま受け入れるとしたらそれは大いに問

  題です。知らないことを知っておく必要がある。自分がいまどこにいるかを知るとい

  うのは、こういうことです。そういったなかで、加害者としての自分を発見すること

  もあるでしょうし、逆に、被抑圧の立場におかれることがあるという事実に気づくか

  もしれない。そのように、自分を棚上げにしないこと、広い意味で当該問題の当事者

  であらんとすること、これが障害学の主体たりうる条件です。どこにイーゼルを立て

  て描いたのかよくわからない絵を見せて、『障害学です』と言われても、私は黙って

  破り捨てるだけです。自分の立ち位置に無自覚な者、自分を棚上げにしてなにかを語

  ろうとする者に障害学はできない、これが私の立場です」

   (倉本智明「障害学、現在とこれから」、『障害学の現在』大阪人権博物館 2002年)