新教出版社『福音と世界』第6210, pp.39-46, 200710月号および第6211, pp.51-57, 200711月号より抜粋

 

 

自閉症と教会

 

川越敏司 

 

 本稿では、自閉症と教会を巡る諸問題について、神学的・実践的な観点から検討を行います。牧師・神学者でもなく、まして自閉症当事者でもなく、一介の信徒で自閉症児の親に過ぎない者ですので、そもそもこうした問題を語る資格がない者かもしれません。

 

(中略)

 

また、自閉症と教会を巡る問題が、決して特殊な実践神学上の問題のひとつにすぎないのではなく、むしろ聖礼典などの教会を分断する重要問題とも密接に関わりがある点にも注意を促したいと思います。

 

1.信じがたい現実

 

 (中略)

 

自閉症の息子さんを抱えたある家族が、教員全員がクリスチャンで少人数教育を実践しているミッション系私立小学校に健常者の娘さんを入学させるために面接を受けた際、「できる限り協力しますので、2年後に自閉症の息子も入学させたいのですが」と期待をもって校長先生に尋ねると、「うちには養護の先生がいませんので、無理です」と一蹴されたそうです。

また、別の家族は、自閉症の息子さんも何とか教会学校に参加できないかと思い、教会学校教師たちに自閉症の特性[1]と自閉症児の療育に有効とされているTEACCHプログラム[2]に関する簡単な説明を行い、「写真や文字で礼拝プログラムを視覚的にわかりやすくしてもらえると参加できるかもしれません」と訴えましたが、「お子さんだけを特別扱いはできませんし、自閉症の子に合わせていると他の子は飽きてしまいます。教会学校も礼拝なので、秩序を保って活動する必要があります。養護施設のようなことはできません」と言われたそうです。

しかし、マルコによる福音書第2章には、イエスが御言葉を語っておられるとき、肢体不自由の人を抱えた四人の男たちが屋根をはがして穴をあけ、その人の寝ている床を屋根からつり降ろしたという事件が記されています。礼拝の真っ最中に、屋根をはがして飛び込んでくるなど、礼拝の秩序を乱すどころの騒ぎではないでしょう。人々は口々にこのような行為をののしったのでしょうか。福音書にはそのようなことは記されていません。ただ、律法学者たちがイエスの御言葉を、神を冒涜する行為だと心の中で批判したと記されているだけです。そこにいた会衆は誰も礼拝の秩序を乱すなどと不平は言わなかったのでしょう。そして、「イエスはその人たちの信仰を見て」(5節)、その人に憐れみを示されたのです。イエスは更に別の機会に「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(27節)とも言われています。

信じ難い現実はどこにでもあるものです。しかし、99匹の羊をおいても、1匹の迷い出た羊を捜し求めてくださるイエスは、きっと「礼拝の秩序を守る」ために自閉症の人々を教会から排除することはないはずです。「弱い者や見ばえのしない者、見たところ役に立たないと思われる者をキリスト者の生活共同体から閉め出すことは、まさに、貧しい兄弟の姿をとって戸を叩くキリストを閉め出すことを意味する[3]」ことを忘れないようにしたいものです。

 

2.母子室という密室

 

(中略)

 

自閉症児を抱えたある家族は、数百人の信徒をかかえる大きな教会に通っていました。パイプオルガンもあり聖歌隊の合唱も素晴らしいところでした。しかし、その教会は、自閉症児にはつらい環境でした。自閉症児は騒音や人ごみが苦手なので、礼拝が始まる頃にはパニックを起こし、奇声をあげ、家に帰ろうとします。ですので、その家族は礼拝堂にとどまることができず、かといって母子室は狭く、色々な物であふれているうえ、授乳する母親が何人もいて、多動の自閉症児を抱えたその家族は、小さな赤ん坊を誤って傷つけないか心配で、そこにもいられませんでした[4]。そこで、いつも礼拝のメッセージが聞こえず、賛美の歌も聞こえない、ほの暗いロビーや廊下で自閉症の子をあやしながら礼拝が終わるのをひたすら待ち続ける生活を何年も続けたのです。その教会から離れて数年後、さらに多くの人を収用できる新しい教会堂ができたそうです。実は、他にもその教会に通っている自閉症児を抱えた家族がいて、その方から「わたしは息子といまもロビーで毎週礼拝を捧げています」という便りがあったそうです。このような経験をされている自閉症児を抱えた家族は少なくないと思います。

 

(中略)

 

自閉症児を抱えたあるアメリカ人クリスチャンの母親によると[5]、自閉症の息子さんが生まれてからは、夫が2人の子供たちを教会へ連れて行き、彼女は自閉症の息子さんと家に残り、テレビの礼拝番組を通じての礼拝を何年も捧げているようです。しかし、やはり1人で孤独にテレビを見て礼拝していたら信仰が落ち込みます。自閉症児やその家族は、このようにして教会の信仰共同体から周縁化され、神の恵みから引き離されてしまうのです。

 

3.王の食卓に招かれているのは誰か

 

自閉症児の家族を暖かく受け入れている教会も多いと思います。しかし、そうした教会でも、自閉症児が礼拝や教会活動の中心になっていることはまれではないでしょうか。自閉症児の家族を伝道の対象としていても、自閉症児本人を伝道の対象にしている教会はさらにまれなのではないでしょうか。障害者「も」教会に来てください、暖かく受け入れますと言う場合、自閉症児が礼拝中に大きな声を出しても、礼拝堂を走り回っても、大目に見るということを意味しているのでしょう。しかし、障害者を1人の主体的な人格を持った求道者として扱い、健常者と共に礼拝に参加できるように配慮している教会はそれほど多くないのではないかと思います。身体障害者の方のために教会堂をバリアフリーにしたり、エレベータやリフトを設置しているところは多いでしょう。しかし、自閉症児に対する支援はほとんど実施されていないのではないでしょうか。そのため、障害者「が」教会の中心になれないのではないでしょうか[6]

サムエル記下第9章には、サウル王の死後、王位に就いたダビデが、親友ヨナタンの子で両足の不自由なメフィボシェトを王宮に呼び寄せた出来事が記されています。凋落した王の子孫であり、障害者でもあったメフィボシェトは、そのときどれほどの差別に苦しんでいたことでしょう。何と自分自身を「死んだ犬」と呼んでさげすんでいるのです。しかし、ダビデは、自分を苦しめたサウル王の子孫であるメフィボシェトをわが子のように愛し、生活に不自由がないように配慮し、王の子としての特権をすべて与えます。そして、「メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした」(11節)のです。ダビデが王位に就くまでに共に戦いを生き抜き武勲を立てた部下は数多くいたでしょう。しかし、ダビデを通じて「神の恵み[7]」を受けたのは障害者であるメフィボシェトただ1人だけだったのです。

ダビデとメフィボシェトの逸話は、障害者こそが王の王、主の主であるイエスの食卓に招かれていることの型を示しています。ですから、自閉症児を教会のメインストリームから排除することは許されないのではないでしょうか。

 

(中略)

 

障害者は決して教会で支援を受けるだけ、面倒をみてもらうだけの客体的存在ではありません。障害者もまた、主にある兄弟姉妹として、主体的に教会で奉仕し、教会活動に貢献できるのです[8]

 

4.祈りと癒し

 

(中略)

 

 障害が治癒されているにも関わらず、なおも差別に苦しむこれらの人々は、本当の意味では癒されていないのではないでしょうか。福音書に記されたこれらの記事はそのことを明快に語っています。このことから、障害者が抱える身体・精神上の損傷(インペアメント)からの回復(治癒)と、共同体の一員として受け入れられず、あるいは不自由なく生きる上での配慮が欠如しているために社会参加が抑圧されている状態(ディスアビリティ)からの回復(癒し)とを区別して考える必要性があることがわかります。近年、障害学(ディスアビリティー・スタディーズ)の研究が盛んに行われています[9]。障害学では、インペアメントとディスアビリティを明確に区別し、障害を身体・精神上のインペアメントとして捕らえる医学的モデルに対比して、インペアメントを理由として障害者の社会参加を不当に抑圧する社会的障壁としてのディスアビリティに着目する社会モデルを採用しています。それは、障害者を治癒するという医学的モデルの主張のうちには、障害者=劣った者、不完全な者、正常に戻すべき者という偏見が入り込んでいるからです[10]

 

(中略)

 

障害者の主体的な社会参加を妨げるディスアビリティを生み出しているのは、その人の身体・精神上のインペアメントではなく、わたしたちが障害者を見つめる視点であり、その人との間で私たちが取り結ぶ社会的関係なのだということを理解しなければなりません[11]

 

5.自閉症児は救われているか 

 

(略)

 

6.自閉症者の信仰と聖礼典

 

(中略)

 

自閉症者のもつこのような特性を考慮すれば、彼らが聖書のメッセージを理解することも可能ではないでしょうか。学校や施設での自閉症児への支援法を教会生活に適用したガイドブックに『自閉症とあなたの教会』があります[12]。この本を出しているのはフレンドシップ・ミニストリーズという団体で、ダウン症の子をもったクリスチャンの方が始めたようです[13]。今では全米、カナダ、それにスペインで知的障害者のための伝道をしているとともに、彼らに福音を理解させるための教材の販売も行っています。自閉症の特性を理解し、こうしたツールを効果的に創造的に用いることによって、自閉症者を教会に招き、共に主に仕える兄弟姉妹となることができるのではないでしょうか。

 

(中略)

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ1014)と言われたイエス自身、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ1125)と言われました。神の偉大な奥義は子供や知的障害者にこそ啓示されているとはいえないでしょうか。

 近年、子供の信仰や霊的発達に関する研究が数多く出版されています[14]。発達心理学の知見に照らしてみて、子供が信仰の発展段階のどのレベルならば「信仰をもっている」と言えるのか、「子供は聖礼典の意味を理解できない」という命題も含めて、今後の深い再検討を要する課題であると思います。何より、信仰も救いも、人間の業によるものではなく、恩寵に基づく神の主権的行為によって無償で与えられるものであることを指摘しておきたいと思います。

 

7. 自閉症の霊的発達保障をもとめて

 

(中略)

 

戦後まもなく、知的障害者のために尽力したクリスチャン福祉家に糸賀一雄という人がいます。糸賀は福祉の世界に「発達保障」という考えを生み出しました。経済的な所得保障だけではなく、誰もが人間らしく成長し発達することを保障されるべきだという考えです。

「私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。「この子らに世の光を」あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。「この子らを世の光に」である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬ[15]。」

障害者のことは、学校や福祉施設の専門家に任せておいた方がよいと考える人も多いでしょう。確かに、精神的・身体的な面での「発達保障」はそうした世俗の団体が担うべきかもしれません。しかし、障害者の「霊的発達保障」は教会にゆだねられた特権なのではないでしょうか。なにより、「障害のある人たちのいない信仰共同体は、障害があり、また障害となる信仰共同体である[16]」というモルトマンの言葉を覚えたいものです。

 

(かわごえ・としじ 公立はこだて未来大学システム情報科学部准教授)



[1] 自閉症は生まれつきの脳の器質的障害のために起こる発達障害であり、(1)社会性の欠如、(2)言語やコミュニケーションによる理解の困難、(3)こだわりや反復的行動によって特徴づけられ、現在のところ原因も正確にはわかっておらず、治癒することは見込めません。詳しくは、ウタ・フリス(1991) 『自閉症の謎を解き明かす』, 東京書籍、フランシス・ハッペ(1997)『自閉症の心の世界―認知心理学からのアプローチ』, 星和書店を参照してください。これらは、自閉症のもつ障害を統一的に捉える理論的枠組みとして提唱された「心の理論」に基づいています。「心の理論」による自閉症理解を提唱したサイモン・バロン=コーエン(1997) 『自閉症とマインド・ブラインドネス』, 青土社、それに反対の姿勢をとるR.ピーター・ホブソン(2000) 『自閉症と心の発達 「心の理論」を越えて』, 学苑社、「心の理論」擁護者と反対者との間の討論を収めたサイモン・バロン=コーエン, ヘレン・ターガー・フラスバーグ, ドナルド・J.コーエン(1997)『心の理論―自閉症の視点から』, 上・下, 八千代出版などをさらに参照してください。

[2] TEACCHプログラムとは、Treatment and Education of Autistic and related Communication handicapped Childrenの頭文字をとった略語で、アメリカ・ノースカロライナ大学のショプラー教授のグループが開発した自閉症療育プログラムのことです。詳しくは内山登紀夫(2006) 『本当のTEACCH 自分が自分であるために』, 学研などを参照してください。なお、TEACCHプログラム以外にも、応用行動分析(ABA)などが自閉症の療育に用いられています。また、比較的知能が高く、言葉をある程度理解できる場合は、ソーシャル・ストーリーズやコミック会話が自閉症児の社会性理解発達に有効だとされています。

[3] ディートリッヒ・ボンヘッファー (2004) 『共に生きる生活』, 新教出版社, p.36

[4] 自閉症の人々は他人との関わりが苦手なので、決して意図的に人を傷つけることはありませんが、パニックなどを起こして暴れた時、誤って他の人を傷つけてしまう可能性はあります。

[5] Kathy Medina (2006) Finding God in Autism A 40 Day Devotional For Parents of Autistic Spectrum Children, Tate Publishing, p.7. この本は、自閉症の息子さんをもった母親が40日間毎日の祈りと聖書の学びを通じて自閉症と向き合う決心をし、その経験を生かして、同じ境遇の親達をはげますために書いた40日間のデヴォーション・ガイドです。

[6] NCC障害者と教会問題委員会編 (1993)『障害者神学の確立をめざして』, 新教出版者所収の「「国連・障害者の十年」の最終年にあたっての呼びかけ」は、障害者が教会、そして社会の責任ある主体であることを確認し、その教会への呼び掛けの中で次のように述べています。「教会は、障害者を神の共同体の一員として受け入れ、障害者が積極的に役割を果たせる群れとなろう」(p.168)

[7] 原語のヘセド・エロヒムは新共同訳では「神に誓った忠実」となっています。一方、七十人訳やウルガータ、口語訳や新改訳では「神の恵み」と訳されています。この違いは、ヘセドの意味を憐れみ、愛、親切というよりむしろ忠誠を尽くすことや契約の遵守とみるNelson Glueckの影響力のある研究成果によるものです。ただ、この箇所の文脈ではむしろ、ダビデがヨナタンの子孫に対して義務の遂行をしているというよりは真実の愛を表明しているという見方を採用した方がよいと思います (Katharine Sakenfeld (2002) The Meaning of Hesed in the Hebrew Bible: A New Inquiry, Wipf & Stock Publishers, R. L. Harris, G. L. Archer, Jr., B. K. Waltke (1980), Theological Wordbook of the Old Testament, Moody Publishers, pp.305-307)

[8] 音階(ドレミファ)を色で区別し、音の長さを円や楕円で表した楽譜(フィギュア・ノート)を用いることで、知的に発達が遅れている自閉症児でも、適切な支援を行うことで、奏楽の奉仕さえ可能になります。

[9] 障害学については、マイケル・オリバー(2006) 『障害の政治』, 明石書店、コリン・バーンズ、ジェフ・マーサー、トム・シェイクスピア(2004)『ディスアビリティ・スタディーズ』, 明石書店、石川准・長瀬修・編著(1999)『障害学への招待』, 明石書店、星加良司(2007)『障害とは何か ディスアビリティの社会理論に向けて』, 生活書院、杉野昭博 (2007) 『障害学 理論形成と射程』, 東京大学出版会などを参照してください。また、関連するものとして、病いの社会文化的依存性を追及する医療人類学の知見などを参照しながら福音書における病いと癒しについて論じた、ドミニク・クロッサン(1998) 『イエス あるユダヤ人貧農の革命的生涯』, 新教出版社, 第4章、あるいはその元になったJohn Dominic Crossan (1992) The Historical Jesus, HarperSanFrancisco, 第13章、John J. Pilch (2000) Healing in the New Testament Insight from Medical and Mediterranean Anthropology, Fortress Pressなどがあるので参照してください。

[10] Nancy L. Eiesland (1994), The Disabled God Toward a Liberatory Theology of Disability, Abingdon Press, p.35-36には、生まれつき肢体不自由な女性が、歌を歌う上で何の支障もないのに、肢体不自由を理由に教会の聖歌隊から排除された例が記されています。斉藤道雄 (1999) 『もうひとつの手話 ろう者の豊かな世界』, 晶文社には、手話を独立した語彙と文法体系を備えた1つの言語として認めず、ろうの子供たちが自然発生的に覚えた手話を学校が禁止・抑圧し、健常者のように聞き・話すことを強要していた事例が紹介されています。健常者のように聞き・話すことこそが正常であるという見方が、ろう者のコミュニケーションの発達を阻害し、ひいては社会の中での適応を阻む実例がここに示されています。

[11] 近年、障害学研究者の間でも、障害の社会モデルによる説明は、身体・精神上のインペアメントを軽視しすぎているという反省があります。星加 (2007)前褐書の他、Tom Shakespeare (2006)  Disability Rights and Wrongs, Routledge、またLennard J. Davis ed. (2006) The Disability Studies Reader, 2nd edition, Routledge所収のTobin SiebersTom Shakespeareの論文などを参照してください。

[12] Barbara J. Newman (2006) Autism and Your Church, Faith Alive Christian Resource & Friendship Ministries

[13] http://www.friendship.org/

[14] Donald Ratcliff ed. (2004) Children’s Spirituality Christian Perspectives, Research, and Applications, Cascade BooksMarcia J. Bunge ed. (2001), The Child in Christian Thought, Wm. B. Eerdmans PublicationsMichael J. Anthony ed. (2006), Perspectives on Children’s Spiritual Formation, Boradman & Holman Publishersなどに様々な立場の見解が紹介されているので参照してください。

[15] 糸賀一雄 (1968) 『福祉の思想』, NHKブックス, p.199

[16] ユルゲン・モルトマン (1994) 『いのちの御霊 総体的聖霊論』, 新教出版社, p.390