「障害学と経済学との対話」研究会発表、(東京大学、20061118日)

 

障害学は実験できるか?

 

公立はこだて未来大学

川越敏司

 

 

障害学の社会モデルの経済学的解釈を試みる5つのモデルを提示する。

 

ここでの課題は、「障害の個人モデル」と「社会モデル」との区別、インペアメントとディスアビリティとの区別を経済学的にどう表現するかということである。

 

 

モデルA. 危険回避としてのディスアビリティ

 

障害者は、平均的には健常者と同じ成果・生産性を出せるにしても、障害者はいつ病気になるかわからない、いつ欠勤するかわからない、またちょっとした事故が重大な怪我につながるかもしれない。企業の人事部門がこのようにリスクを重く見ると、障害者の雇用が進まないということはないだろうか。

 

もしそうなら、企業の人事部が危険回避的選好にしたがって意思決定している可能性がある。

 

次の選択を考えてみる。あなたならどちらを選ぶだろうか?

 

選択肢A:

確実に10万円もらえる

 

選択肢B:

20%の確率で50万円もらえ, 80%の確率で何ももらえない

 

選択肢ABの賞金の期待値は同じである。

 

賞金の期待値が同じであるにも関わらず、多くの人がAを選ぶだろう。というのは、この2つの選択肢は、期待値が同じでも、そこに含まれるリスクが違うのである。Aを選ぶ人は危険回避的であると言われる。確実な利益をもとめているからである。

 

参考文献

・友野典男著(2006):『行動経済学 経済は「感情」で動いている』光文社新書

・広田すみれ, 増田真也, 坂上貴之著(2006):『心理学が描くリスクの世界 行動的意思決定入門』慶應義塾大学出版会

 

 

モデルB. 双曲型割引としてのディスアビリティ

 

たとえ障害者の生産性が高く、長期においては企業活動(コスト削減)への貢献が大きくとも、職場のバリアフリー化などの短期における投資コストの方が重く見られるために、障害者雇用が進まないということはないだろうか?

 

もしそうなら、企業の人事部が双曲型割引率にしたがって将来の価値を割り引いている可能性がある。

 

異時点間の選択にあたっては価値の割引が行われる。つまり、1年後の1万円の現在時点での価値は1/(1+r)万円と考えられる。ここで、r (0<r<1)は割引率である。したがって、1年後の1万円の現時点での価値は、現時点での1万円より小さい。経済学では、この割引率rは時間を通じて変わらないという仮定がしばしばなされる。

 

しかし、現実には、

 

(A)1年後の1万円を現時点に割引する場合

(B)11年後の1万円を10年後(つまり1年前に)に割引する場合

 

2つを比べると、価値の割引方に違いがあると考えられている。つまり、(A)の場合のほうが割引率は大きいと考えられており、これは実験的によく確かめられている。つまり、人は近視眼的に近い将来を重く見る傾向がある。このような価値の割引方を、その形状から双曲型割引率という。

 

参考文献

・友野典男著(2006):『行動経済学 経済は「感情」で動いている』光文社新書

・広田すみれ, 増田真也, 坂上貴之著(2006):『心理学が描くリスクの世界 行動的意思決定入門』慶應義塾大学出版会

 

 

モデルC. 価格としてディスアビリティ

 

仮に、企業の人事部が、障害者を雇用することに対する社会的責任感を感じていたとしても、障害者雇用率未達成の際に課される課徴金の額が小さいために、障害者雇用が進まないということはないだろうか?

 

もしそうなら、企業の人事部はW効果のもとにある可能性がある。

 

次のようなゲームを考えてみよう。

1)プレイヤー11000円が与えられる。

2)プレイヤー1はそれをもう一人のプレイヤー2に分け与える。何も与えなくてもよい。

3)プレイヤー2はプレイヤー1の提案を受け入れるしかない。

 

ゲーム理論の予測では、プレイヤー1がプレイヤー2に何も与えないことが最適であるが、実際にはある一定額をプレイヤー2に与える傾向がある。

 

このゲームに次のオプションを付け加える。

 

 (4) プレイヤー2は相手に提案に対し、ある価格を支払って固定額の罰則(あるいは報酬)を与えることができる。

 

罰則(あるいは報酬)額を変えて比較したところ、罰則(あるいは報酬)額が小さいときには、このオプションがないときよりも、プレイヤー1がプレイヤー2に与える額が減少した。これは、オプションがない場合には明示的でなかったプレイヤー1が生来もっている平等感などにもとづく社会的責任感の大きさが、罰則(あるいは報酬)の苦痛(快楽)として明示化されたため、社会的責任感の大きさが小さな罰則(あるいは報酬)程度だと評価されることになり、その社会的責任を軽く見るようになったと考えられる。

 

もちろん、罰則(あるいは報酬)額が十分大きいと、プレイヤー1がプレイヤー2に与える額は増加している。

 

参考文献

・川越敏司著(2004):「第6章 実験経済学の現在」in『経済思想〈1〉経済学の現在〈1〉』日本経済評論社

・スティーヴン・レヴィット, スティーヴン・ダブナー著(2006):『ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する』東洋経済新報社

 

 

モデルD. 所有権としてのディスアビリティ

 

「障害の社会モデル」に従えば、企業は障害者が働きやすい職場環境を提供すべきである。言い換えれば、バリアフリー化された職場環境を享受する権利は、障害者の所有(もの)である。一方、「障害の個人モデル」に従えば、バリアフリー化された職場環境は障害者の所有(もの)ではない。であるから、「障害の社会モデル」と「個人モデル」の違いは所有権配分の違いだと考えることができる。

 

企業にとって、障害者を雇用した場合、その生産における変動が、物理的環境の変動によるものなのか、障害者の労働能力や障害の問題であるのか区別できない。あるいは、障害者の病気や怪我などの不測の事態が発生するため、事前に契約が書けない。そこで、生産物の価値をどのように配分するかについて、不完備契約の状況にあると考えよう。

 

障害者は、養護学校や職業訓練校、企業内研修を通じて、ある特定の業務に対する高度な専門技術(人的資本)を身につけるものとする。この人的資本は、特定企業の業務に特化している。

 

人的資本は障害者の「努力」によって蓄積される。企業の生産コストは、この努力の減少関数と仮定する。企業での生産は、この人的資本と、企業内のバリアフリー化された職場環境(物的資本)とを結合することによって行われる。しかし、ここで、企業がこの障害者のもつ人的資本を利用するためには、職場環境をバリアフリー化しておかなければならない。職場環境をバリアフリー化した場合、その障害者に特化した職場環境のもとでは、健常者の生産性は障害者に劣るものと仮定する。

 

まず、企業が「障害の個人モデル」に従っている場合、職場環境をバリアフリー化する権利は障害者の所有(もの)ではない。この場合、企業と障害者の間での生産物価値の分配に関する交渉が決裂すると、企業は障害者の蓄積した人的資本を利用できない。一方、障害者は、交渉が決裂した場合には、物的資本を利用する権利がなく、それに特化している人的資本の利用価値がなくなる。したがって、障害者は職場環境をバリアフリー化するかどうかに関して、企業の機会主義的行動を恐れて、最適な努力水準よりも過小な努力を行う可能性がある。

 

もし、企業が「障害の社会モデル」に従っている場合、職場環境をバリアフリー化する権利は障害者の所有(もの)である。この場合、企業と障害者との間での交渉が決裂しても、障害者はバリアフリー化された職場環境において物的資本を利用できる。この環境の下で健常者を雇った場合、その生産性は障害者を雇った場合に比べて劣ることを企業は知っている。よって、障害者は交渉上有利な立場に立つ。結果として、障害者は企業の機会主義的行動を恐れることがないので、最適な努力水準をもって生産を行うことになる。

 

このように、企業が「障害の個人モデル」にしたがっている場合に比べて、企業が「障害の社会モデル」に従っている場合の方が効率的な生産ができることになる。

 

参考文献

・マイケル オリバー著(2006):『障害の政治―イギリス障害学の原点』, 明石書店

・清水克俊著, 堀内昭義著(2003):『インセンティブの経済学』有斐閣

・コリン・バーンズ, トム・シェイクスピア, ジェフ・マーサー著(2004):『ディスアビリティ・スタディーズ―イギリス障害学概論』明石書店

・ポール・ミルグロム, ジョン・ロバーツ著(1997):『組織の経済学』NTT出版

・柳川範之著(2000):『契約と組織の経済学』東洋経済新報社

 

 

モデルE. バリアフリーとしての聖書

 

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:116

 

Van Huyck, Battalio, Beil (1990)は次のような協調ゲーム(coordination game)の実験を行った。

 

モデル1.

2人の労働者がチームを組んで生産活動を行っている。2人はそれぞれ独立に生産に対する努力水準を選ぶ。ここでは、レオンチェフ型生産関数を想定し、生産量は2人の努力水準のうち、低い努力水準を選んだ者によって決まるものとする。ここで、労働者は高い努力水準H=2と低い努力水準L=1を選べるものとする。労働者の報酬は生産量のa倍とする。努力のコストは、努力水準のb倍とする。ただし、abより厳密に大きく、a, bともに正の値である。結局、労働者の利得は、生産量に比例した報酬から努力のコストを引いたものになる。これを戦略形ゲームとして利得表にしたものが以下の図1である。

 

1.モデル1の利得表

2

1

L=1

H=2

L=1

a-b, a-b

a-b, a-2b

H=2

a-2b, a-b

2a-2b, 2a-2b

 

このゲームのナッシュ均衡を考える。まず、相手が低い努力水準L=1を選ぶなら、自分が高い努力水準H=2を選べば、生産量は低い努力水準Lによって決まり、報酬aを得るが努力のコスト2bを支払うことになるので、利得はa-2bとなる。もし自分が低い努力水準L=1を選べば、生産量は低い努力水準Lによって決まり、報酬aを得るが努力のコストbを支払うことになるので、利得はa-bとなる。a-ba-2bを比べれば、a-bの方が利得が高いので、相手が低い努力水準L=1を選ぶなら、自分も低い努力水準L=1を選ぶことが最適反応である。このゲームは2人の労働者について対称的だから、ともに低い努力水準Lを選ぶ(L, L)がナッシュ均衡になる。

今度は、相手が高い努力水準H=2を選ぶ場合を考える。このとき、自分が低い努力水準L=1を選べば、生産量は低い努力水準Lによって決まり、報酬aを得るが努力のコストbを支払うことになるので、利得はa-bとなる。もし自分が高い努力水準H=2を選べば、生産量は高い努力水準H=2によって決まり、報酬2aを得るが努力のコスト2bを支払うことになるので、利得は2a-2bとなる。a-b2a-2bを比べれば、2a-2bの方が利得が高いので、相手が高い努力水準H=2を選ぶなら、自分も高い努力水準H=2を選ぶことが最適反応である。このゲームは2人の労働者について対称的だから、ともに高い努力水準H=2を選ぶ(H, H)がナッシュ均衡になる。

結局、このゲームには2つのナッシュ均衡(L, L), (H, H)があることがわかる。そして、均衡(H, H)における利得2a-2bの方が均衡(L, L)における利得a-bより高いので、均衡(H, H)が均衡(L, L)をパレート支配している。

 

モデル2

 ゲームの構造は基本的にモデル1と同じである。ただし、もし一方の労働者が相手よりも高い努力水準を選んだ場合、支払うべき努力のコストは低い努力水準の場合になる、言い換えれば、超過した努力分ペイバックされる。そうすると、このゲームの戦略形は以下の図2の利得表として表現できる。

 

2.モデル2の利得表

2

1

L=1

H=2

L=1

a-b, a-b

a-b, a-b

H=2

a-b, a-b

2a-2b, 2a-2b

 

このゲームのナッシュ均衡を考える。先ほどのモデル1と違い、相手が低い努力水準L=1を選ぶとき、自分はどちらの努力水準を選んでも同じ利得となる点に注意しよう。これはペイバックがあるからである。しかし、あくまで相手が低い努力水準L=1を選ぶとき、自分も低い努力水準L=1を選ぶことが最適反応であることに変わりなく、このゲームは2人の労働者について対称的だから、ともに低い努力水準Lを選ぶ(L, L)がナッシュ均衡になる。

相手が高い努力水準H=2を選ぶ場合は、低い努力水準Lを選べばa-bの利得で、高い努力水準H=2を選べば、2a-2bの利得となり、a-b2a-2bを比べれば、2a-2bの方が利得が高いので、相手が高い努力水準H=2を選ぶなら、自分も高い努力水準H=2を選ぶことが最適反応である。このゲームは2人の労働者について対称的だから、ともに高い努力水準H=2を選ぶ(H, H)がナッシュ均衡になる。結局、モデル1とモデル2のナッシュ均衡は変わらないのであった。

 しかし、Van Huyck, Battalio, Beil (1990)によれば、モデル2における方が、モデル1に比べて、パレート支配のナッシュ均衡(H, H)が選ばれる頻度が高かった。それは、モデル1では、自分だけ高い努力水準H=2を選べば、2bという高いコストを支払う危険があり、協調の失敗によってそういった危険を招くことを被験者が嫌ったためだと考えられている。

 これらのモデル1,2を障害学の文脈で捕らえてみると次のようになるだろう。ここでの労働者のうち、一方を健常者、他方を障害者としよう。「障害の個人モデル」の立場に立つ健常者は、障害者は障害があるために低い努力水準しか選べないだろうと推測する。自分だけ高い努力水準を選んで、努力のコストを支払うのはまっぴらだと考える。障害者も健常者が自分の能力を低く見積もっていることを予測しているので、自分だけ高い努力水準を選んでも無駄だと考える。これは報酬を決める係数aと努力のコストを決める係数bとの比a/bが比較的小さい場合にあたる。この場合、パレート劣位の均衡が実現しやすくなる。

 今度は、健常者が「障害の社会モデル」の立場に立っているとしよう。健常者は、障害者のインペアメントとディスアビリティを正しく区別しているので、障害があるから障害者の生産性が低いというのは偏見であり、職場環境が適切にバリアフリー化されることで障害者は高い生産性を示すことができるはずであると考える。だから、障害者とチームを組んで生産に従事するとしても、自分だけ努力して損だという観念はもたない。また、障害者も結果として、職場環境が適切にバリアフリー化されることで、蓄積した人的資本を有効に活用できることと、偏見のない職場環境のため、安心して高い努力水準を発揮することができる。これは報酬を決める係数aと努力のコストを決める係数bとの比a/bが比較的大きい場合にあたる。この場合、パレート支配のナッシュ均衡が実現しやすくなる。

 

参考文献

Van Huyck, J. B., R. C. Battalio, R. O. Beil (1990): “Tacit coordination games, strategic uncertainty, and coordination failure,” American Economic Review 80, pp.234-248