大学生として、あるいは一人前の人として、 充実した生活を送るためにどのようにすればよいだろう。 実際のところ大学生活にセオリーなどはなく、 また、絶対的なガイドがあるわけではないのですが、 自戒の意味もこめて気がついたことを書いておきます。
以下は、組織の意見ではなく、私の個人的な見解です。
私は、大学とは単なる知識を教わる場所ではないと思っている。(大学と専門学校とどう違うのかとよくいわれることも多い。こういうときは、専門学校はそのときに必要な技術の習得を目標とした職業訓練校みたいな場所だと考えるなんていわれることもよくある。どちらが高級なのかというよりも、基本的に専門学校の方が修業年限が短く、必然的に学べる事は4年制の大学より少ないことから、少なくとも修業年限の分だけ違いがあると考える。その違いは何なのかと考えたいということでもある。)
大学は、どんな性格をもった場所なのかというと、(1)他のだれもが、まだ知らないこと、気づいてないことに一人で気づいて、それに関連して社会に役立てる方法を、工夫して考え出すための力を身に付け、しかもそれを伝授する力を与えるまでも力を磨くところであり、(2)何かをひたすら学ぶだけにとどまらず、多様な分野(Discipline)に関われる学び方の法則のようなものを身につける場である、と私は考える。
世の中には、そういう力をすでにもっているひともいる。そういう力を持ちたいとおもっても、教える側が持たせてあげたいと思っても「勘の鈍い」うちは、それを与えることは簡単ではない。単に、暗記することや、ちょっと呑み込みが早いといったこととはちょっと違うスキルが必要なのだ。
では、どうするか?生まれつき持ち合わせていない技については、まずは、考え続ける。どうやれば、自分の力が伸ばせるかを考える。他人のものを盗む(自分にあわせて学習転移させる)ことも良いだろう。大学は自由に学ぼうとする人たちがいる場所だから、周りには様々な人がいるはずだ。自分にはない力を持っているような人物(教員でも学生でもかまわない)を捜し当てたら、その人がなぜ高い生産性をあげられるのかをじっと見つめていくこと、いつもその人の生産性の高さの理由を考えていくことなどは、自分の力を伸ばすのに有効だろう。
そんなことは大学でなくてもできるだろうって?答えはイエスでありノーでもある。つまり、その人の置かれた状況による。(ただ、大学はuniversityとも言われるように、多様で豊かな文化的背景をもった人たちがいるという特徴をもっており、それと比較できる教育環境は他所の場所にはそうそうあるとは思えない。)
そういう人生の戦略にかかわるようなことをじっくり考えることは、実社会の体験のなかではしにくい。実社会では、いつも一定レベルの成果を出す事を求められる本番の勝負が待っている。実社会の中では人間は自分を置かれた環境の中にすぐに順応させてしまうから、新しいものや広い世界が見えにくくなる。また、日々の生活のなかでの(目先の)活動効率を最大にするということは、将来に対する投資を怠るという側面をも持っている。将来に備えて学ぶにしてもよき手本がないという場合だって多い。大学には、そのような手本がすくなくともあるという建前になっているし、ある程度の能力をもっている人たちがいることは確かなことである。そういうことで、すくなくとも自己に対する教育投資の大切さに気づくことはままあることで、投資の習慣がつくということは大きなメタ知識の獲得となる。
大学には、「海を見る自由」があるという人もいる。ゆとりを持てる場が大学であるという事に関しては、概ね同じなのかも。
よく、言われることかもしれないが、大学は(というか教育は)サービス業なのだろうか?
多くのサービス産業でのサービスに対してなされる定義に当てはまる部分は多い。 学生は対価を払って、 床屋や美容院で髪毛を整えてもらうように、 教員から教育という無形のものを受け取るわけで、顧客と読んでも良いのかもしれない。
ただし、一般的なサービスと異なるところがある。それは、 顧客である学生が「どのような、教育を受けることがよいことなのか」を 多くの場合、すぐにはわからない・確信しきれないということである。
おいしいレストランには、お客さんがあつまるが、大学の教育は、 本当においしいのかわからない。 「良薬は口に苦し」と言われるが、 学生には、今学んでいることについて、 苦しいだけでつまらないのか、 苦しいけれどためになるのか、 楽しいだけで学べないのか、あるいは、 楽しくてためになるのか、なかなか判断しづらいところがあるように思う。
それでは、それをどのようにして見分ければよいのだろう。 おそらく、そこで学んだ人達が長い年月を経て、 人生の経験を積んで、自分の学びを再度評価して結論を出すようなものだろう。 実は、学ぶほうからしてみると、その程度でしかわからないとは思うが、 教えているほうからすると、どれくらい自分が本気でかかわっているかはわからぬはずはない。そう考えながら先生に接してみよう。
多くの人は、自分が「『ちからがある』といわれてみたい」と思ったことがあるに違いない。「ちからがある」ってどんなことだろう。また、ときどき、「おぬしできるな」と言いたくなる人物に出会うことがある。 そいう人の力とはいろいろあるが、その一つは、なにかを「実現する力」ということだと思う。
いくら大層なことをいっていても、実際にそれが実現されなければ、誰も信用しない。(とはいっても、実際のところ、「やらないのに、出来ないのに、言ってみる」ということにも、現実の世界ではある程度の意味はあると、私は考えている。)
どうも作業をしていくにつれて、困難とか壁というもの(問題といったりすることもあるよね)に阻まれることがある。一番、安易な解決はその困難や壁の存在を忘れてしまうことだ。じつは、日常生活のなかにはいっぱいそんな壁がある。 そんな多くは、だれも解決できない壁だ。だからこそ、もうひとつあらたな壁が現れてもそれが、あたかも壁ではないように振舞うことは案外簡単な場合が多い。 (そうしてうだうだしているうちに、突然別の人がその壁を取り払ってくれるというラッキーなことも、たまには起こる。)
たしかに、自分自身を振り返ってみても、見て見ぬふりをしている壁はいっぱいある。とはいうものの、壁の存在を忘れるのが非常に(いや、異常にといふべきか?)上手な人も少なからずいる。(なかには、「忘却力」が「芸術のレベル」に達していてあきれてものが言えない人もいたりする。こういう人は自分でわかってなくても「反則系の人」ま、そんなことはどうでもいい..はずはないのだが...おいといて...。)
ちからがあるというのは、新たに現れたその壁を取り除こうとする粘り強さをもつことだ。もちろん、中国にある泰山のように動かない壁(そういうのはやっぱり、山なんだろうね。)もあるだろうし、ドンキホーテのように風車に向かって戦いを挑んでも仕方がないので、問題の困難さと解決した時の効果を読みきる力も大切だ。だが、重ねていうと、問題に遭遇したら、問題についてしっかり考えて粘り強く考えてゆくこと、そういうことが大切なのだ。最後にそうやって、いくつもの、「出来ないこと」を成し遂げた人にはひとりでに拍手を送りたくなるものである。
「じぶん探し」とは、字面の意味どおり「自分の中にある(べき)」あるいは「世界のどこかにいる(べき)」、「本当の(!!)自分」を見出すことではない。 それは自分をつくる作業だ。 自分とは、自分の脳の中に積み上げられた自分史と情報に他ならない。 高校までの学校の授業の多くは、周りの人と同じものを自分の中に詰め込む作業だったのではないか。そういう作業を中心にしてきた人ほど、振り返ってみると「自分度」のすくない「じぶん」を見出すことになる。自分というものを省みたとき、ひとと違う自分をみつけにくい状況にあることになる。自分は将来どうやって生計を立てていこうとしているのか?どういう暮らしをしていきたいのか。わからないことばかりだ。
そういうとき、自分らしさを作っていくことは大切なことだ。 「自分を探す=自分を作る」という作業は、 いま隣に座っている友人と異なる作業をし、それを積み上げていくことである。 それは、それほど難しい作業ではない。むしろ、ほかの人と同じことをするよりも 自然な作業だ。(教室の中で、みんなが同じことを同じように学ぶのは、効率のためという一面もあるのだ。) いま自分の目にうつっているものを、意識すること。 意識した対象物に対して、自分がおかれた環境を通して価値判断する。 こういう作業は自然な作業だが、最初はとまどう。 いままで人と同じことをすることに集中してきた人ほど、 人と異なることをすることにとまどいを感じるからだ。 とはいえ、そういった「自分固有の価値判断」をためてゆくことが自分探しだ。 大学にいるということは、そういうことを意識化し、結果的に自分をつくる ために有効な大事な時間を得る環境にいるということなのだ。
いざ、自分の職業をえらぼうとすると、 なかなか決まらないものだが迷うのはよくない。 ひとまず、自分はどういう職業につこうとしているのかを仮に決めてしまって、 いま何をすべきかがはっきりさせる。 「わからない」、「決めていません」そんなことを言っているのは 決してよいことではないと思う。 (たとえ、あとで変更するとしても...ひとまず、考えてみた方がよい。) この職業についたら自分はどうなるかを考える作業を早く始めるほうが得るものが大きい。 何かを決めると次が見える。その後で何かが得られる。そんなところだ。 さもなければ時間切れになってばたばたと決めるしかなくなるわけだから...。
社会人になったとしても、業種によって、職種によって、あるいは社風(組織の風土)に よって、仕事のしやすさや生活の仕方はかなり違う。自分に関連した業界に ついてはできるだけ、風評を参考にし、 しかも、すくなくとも三社を比較してみるとよい。 ある産業(業種)の隆盛・衰退は30年ぐらいの単位でわかり、 会社に入ってから数年すれば、その傾向がはっきり読めてくるものだけれど、 会社に入る前からでも、その傾向には敏感になるのがよいと思います。 苦しい業種では求人どころではないことが多いですが、 安い労働力として扱われてしまうことのないように...。
学びの基本を間違えているような事例を頻繁に見かけるので、ここで抑えておこう。
もっとも大切なことは、自分が学んでいる対象について、 基本的で重要な構造を見出そうとすること。 万物がそうだとは言わないが、学校で学ぶことには構造がある。 というか、構造のないようなものは、一度体験すれば身につくものなので、 大学で学んでも仕方が無い。 (重要ではないといいうことではなく、 仰々しく「学ぶ」必要がないというだけのことだ。 だから、大学で学ぶ学問についてはそのウラにどのような構造があるのか、 一歩立ち止まって考えてみることが有効になると思う。)
学びの構造を知ると、関連したことをそのまま覚えるのではなくて、 その事象の周辺にあるルールも同時に覚えることになる。 大切なことは、ルールで理解すると、 覚えていないこと、体験していないことに対しても、 自信をもって対処できるようなことがあることだ。
ここで、大切なことは、「ゆっくり、学ぶ」ということ。 駆け足でいろいろなことを学ぼうとすればするほど、 吸収する効率はおちるように思われる。 感覚的に表現すると、学びたいことを見つけたら、 歩みをやめて、しっかりと立ち止まって、 懐からスポンジを出して、学びの水たまりにそれを浸す。 そのスポンジに、学びが十分吸い込まれて、 吸い込まれて、いまにもこぼれ落ちそうになるくらいに見えたら、 それが十分学んだということになるんだと思う。 焦って、6割、7割の学びで満足して、学びをやめたりしないことだ。 (これ全部喩え話だから、具体的にスポンジや水が何に対応するという話ではない。)
自分は、よくわかっていると思うのだけど、 なぜか、成果があがらないことはないだろうか? そういうときに、努力はしてもなかなか、 すっきりとした解決は得られないことがある。
こういうとき、自分でわかっていると思っていることが まったく、分かっていない場合がある。 わかっていると思うから、それについて学ばないので、 自分にとって、対処がむずかしくなっている。
そういうときは、ゼロベースでもう一度学び直して、 なにが問題なのかを謙虚に考えるのがよいと思う。
網膜上にあって光を感じられない場所を盲点という ことは多くの人が知っていると思う。 人間の体は、見えていないものを見えていると 錯覚させるような仕組みを持っている。 それと似たような事が、知性を伴う生活のなかで生じているのではないかと私は考えている。
切羽詰ったとき、良い解決策を急にひらめいたという経験は持っていない人はないと思う。 それまでの経験の中から直感的に下せる価値判断というものは誰にもあると思う。 また、自分の専門分野であれば、 咄嗟の判断を迫られた時にも、 直感的に正しい解決策が見出せるといったことはないだろうか。
こういった、 感覚的な判断ができるようになるということは、多くの経験を積み重ね、 脳内のネットワークがチューニングされた状態にしておくということだろう。
ここでいう「野生」とは構造主義を唱えたレヴィストロースのいう野生とは、「同じとは言えない」ものなので、ちょっと違うものだと考えていただきたい。 論理を積み重ね正解を見出せることも大切だが、 経験に基づいて直感的に「自分はこう思う」という筋のとおった見方ができるように、いつも自分を磨いておこう。
英語で言えばDon't Panic. 時間的な制限があって、どうにもならない ような状況に追い込まれたとき、心の中で「落ち着こう」、"Don't Panic"と唱えよう。 今の状況を投げ出すことなく、体をゆっくり動かして、 心を澄まして考える。これは、数秒という単位の出来事から 数日という単位での状況のどれにも対応できる。冷静に考えて、 余計なことをそぎ落とした行動を心がければ多くの場合、後悔しないで済む 対応が出来るものである。(すくなくとも、あわてずに、落ち着いて考えて、 よい結果を得たことはこれまでの生涯でも何度も経験した。 ま、あたりまえの事だといわれればそれまでだけど...。 この形式知(たる言葉)になった心構えを 思い出すだけでも不思議な効果があらわれるような気がする。)
生きていると、まれに「非常にショッキングなこと」や 「とても恐ろしい事」「とても腹だたしいこと」などに出会うこともある。 他人事としてみていたら、たいした事でないことのように見えていても、 自分で体験したら、夜寝られなくなるような体験を不幸にして受けてしまう事があると思う。 そういうことがあったら、信頼出来る人とそのことについてゆっくり語り合うことが良い。 多くの場合新しい見方ができて、幾ばくかでも、落ち着きを取り戻せるのではないだろうか。
学校で成績が良いからといって、社会に出て重宝がられるとは限らない。その一番の違いは、お荷物にならないということ。 たとえ話をしよう。学校にいる学生には学ぶ側として、口を広げて食べるものを運んでもらうのを待っているヒヨコのようなところがある。ここでは、与えられた食べ物をよく消化するものが一番高い評価をうける。 だが、社会にでると評価の仕方はかわってしまう、多くの職場では自分で餌(課題、問題、あるいは顧客、商売ネタ)を探すことが求められるようになる。いくら消化効率がよくても自分で餌を探さないようなヒヨコは、職場の厄介者になってしまう、なんて場合も少なくない。多くの場合廻りの誰かが、仕事を与えるから、その仕事をもらってある程度の評価は受けられるのだろうけれど、餌を探してくる仕事は自分には出来ておらず、誰かに迷惑をかけているということになってしまう。部下のために仕事を探すのは上司にとっては大きな負担になる場合が多いのだ。
こういう議論は程度の問題ということにはなるけど、 多少消化効率は落ちても、自分で餌を探して自分で消化しているのと、 誰かに餌を探してもらってばかりいるのではどっちが重宝されのかっていうことだ。他人に依存しない体質をもつことが大事..。
こういう自分から動くような人は、プロアクティブ(proactive)と呼ばれる事もおおい。反意語はリアクティブ(reactive)。
要領のよいと言われる人と、そうでない人がいる。 要領の良い人はいつも、自分の行為の成果を有効に使うことができて、 いま、なすべき事をつねに最適化しているように見える。
要領の悪い人は、一つの問題解決の方法をしっているとすると、 あまり、疑問を持たず、その方法で解決する事をつづけている ということが多いように思える。これは、問題を解決する事が 大事だとは考えず、問題を解いてみせる事が大事だと考えるためかもしれない。
ほかには、一つの方法にこだわるあまり、なかなかその方法を変える事ができない ひともいる。(これは上のケースとは少し違う。) こういう人は、最後に他の人が見つける事ができなかった、 よい結果をだすこともある。こういう人は大器晩成と呼ばれることになる。 やや、リスクがあるがこういう生活態度をもっているひとが社会の中にいることも大事である。
とりあえず、知識を身に付けることはあらゆる実践のための元になる。学生時代はさまざまな分野の知識を身に付け、問題解決の足がかりとなる程度の知識をもっておくことを薦めます。数学、物理、化学、法律、経済、芸術、歴史、計算機、生物、そのほか...学問はなんでも関連して世の中は動いています。お金を儲けること、そういうことを真剣に考えることも時には、(いや、本当のこというといつだって)必要なのだよね。直感でこいつは役に立ちそうもないなんてものはとりあえず敬遠することも忘れずに...。
10代あるいは、20代の頃、恥ずかしながら私は歴史を学ぶ意味がわかっていなかったように思うので、 書いておく。10代の頃は、歴史を学ぶということにおいては、 世界で起こった物語を心のなかにとどめておくことだけが大切なのだろうと考えていた。
歴史は、単純に面白いお話の寄せ集めではない。 一人の人が生きている時間はせいぜい100年、 その短い人生のなかでも、一人ひとりにとっては、 想像のつかないこと(災害、事変、事件)が起こる。 被害をうける前に、「そういうことが起こりうるという 想像力を持っていれば」と、あとになって振り返られることも多い。 各地に大災害の碑が建てられているのはまさにそういうことだろう。 歴史とは、まさに、「転ばぬ先の杖」なのであって、 歴史観をもつかもたないかは、人や社会にとっては重要なものなのである。
史実というのは、実際におこった出来事の記録の集合であり、 人間の生活に重要なインパクトを与えた出来事の解釈とともに語られるものである。 日々の生活の中で、自分の行動が他者に影響を 及ぼす事がわかっているとき、 どのように自分が行動すれば分からないときに 役にたつのが、歴史の研究だと思う。
決して、同じことは繰り返されないのだが、 ある状況の中で人間が、行動を選択するときに、 どのようなことが重ねておきてゆくのかを しっかり確かめることができるのが、 歴史だとおもう。 どういう状況でどういう行動が どんな結果をもたらしうるのか、 洞察をあたえてくれるのが、 社会の中の一回限りで行われた 実験の経過報告なのだ。
多様性は大事だと言われる。これは真実のようだ。どういうことかというと、たとえば、人間の多様性というのは人間社会の可能性を増やすものなのだ。まず、自分と違うなにかがあると自分がどんなものかがわかる。対照できるものがないとものの性質はわからない。また、人間の多様性は大切だ。なにかに対処しなければいけないとき、様々な能力を持った人が居れば居るほど対処しやすい。
多様性には負の側面を持つ性質があるように感じるときもあるかもしれないが、 そういう要素がいることで集団自体がより強くなっていることに気づく事があると思う。 例えば、本当に弱い人、守らなければならない人がいないとき、 人々の生活環境に潜む、危険性のようなものは顕在化しない。 しかし、弱い人がいてそれらの人たちをま守ろうとしたとき、 人間の生活環境に潜む危険性を気づかせてくれることになる。 そして、(病気を治療する方法をもつなど、)その弱さを克服する策をもつことは、 (何をもって強いというのかについても深く考えるべきことではあるが、) 「強い」人たちをも守ることになっている。
逆に、何らかの価値観のもと、価値の低い存在を切り捨てていくことを考えてみよう。 ある時点では、たまたま上位30%にいる自分は下位の階層に含まれない存在かもしれない。 しかし、仮に下位半分を切り捨てたとしよう。 (選別の思想があるところには、切り捨ての論理が存在するのが普通でだと考えよう) その次の選別でもう一度同じ価値観で上から半分を残すとすると、今度は残った50%のなかの 上から30%であった自分は、上位層には入れられず、切り捨ての対象になる。 単一の基準で、選別が行われるとき、気がつけば自分が切り捨ての対象になるという危険性が 選別者以外の人であれば、だれの身にも降りかかりうるのだ。
また、すべての人間は、生まれたときは周りの人に守られなければ、生きて行けない存在だ。病んだ時や、年老いたときがくれば、またそういう守られねば生きていけない存在になる。自分という存在自体も、変化している。成長するという事は変化する事だ。時間の軸の中でおこりうる変化を省みれば、一人の人間だってかなり、異なる性格をもつ多様性を持ったものであるというということも考えておこう。
お金とは約束だと思う。いや実際に、貨幣の起源においては、そうだったようだ。 (でも経済学を学んだ人からは、「とはいうものの『お金とは単純に約束だ』といってはいけない」と説明をうけたことはあるので,学術的にフォーマルな言葉とは言えない。) お世話になったから、今度は私からその分を返すねという印のようなものが貨幣として 使われていたという例もある。 しかし、約束であれば、破られることもある。現実に紙幣の価値は下がりつつあるというのが世の常だ。
ところが、貨幣という仕組みは、約束だけにはとどまらない側面がある。特定の人物のところに富が集まることも多い。最終的に、一人の人間にそんなに生産性があるのかと疑問視するぐらい、平均人の何百倍も数千倍も手元に富を集める人がいる。しかし、一人の人間が、普通の人の何百倍も実質的な消費活動をすることもまた、ありえない。金持ちになった人の多くは、実質的ではない散財という形でしかその富の恩恵を受けることしかできないような気がする。(大きさの限られたスポンジに、たくさん水をかけてもその中に含むことのできる水の分量には限界があるというようなものだ。あとの水はどこかに流れていてしまうだけだ。)
お金をもうけることにはどんな意味があるのか。お金をもうけようとするときは、じっくり考えたいものである。
大学で学ぶことのなかには、テレビの番組を見ている時のように 努力をしなくても自然に頭のなかに何かが入ってきて そのまま知識になるような代物ではないことが多い。時間をかけて、 教育を受けることを前提にするかぎり、それなりの負荷をかけて初めて 理解できるようなテーマを学ぶことになる。これらは、 多くがもともとは問題解決のために必要になった技術であったり、 思想であったりしたもので、多くの時間をかけて解決の糸口を見つけた ものである。これらの技術は、さらに広い応用範囲に対応させるため 洗練された抽象化がなされる。このため、授業できいても「肥やしが効きすぎて」 消化不良となることが多い。栄養剤の錠剤を飲んでいるようなものなのだろう。 胃の中で、こなすために、消化をするプロセスが必要なのだ。
自分の経験を思い出してみた。 最初から知っていることに関する授業は非常によくわかった。 最初から知らない事を教わった授業は, 伝わるものが少なく、あまり分からなかった。 例外もあるけど、8割ぐらいがそんな感じだった。 内容を知っていても、説明を聞き、丁寧に思考の流れを辿ることはためになった。
学ぶものの立場から良い授業だと思ったのは、初めて学ぶ人には少しむずかしくて、内容がきちんとあるもの。 というわけで、授業をうまく消化したかったら、最初から教科書をよんでしまって、 だいたい分かっている状態で教室に向かう事。 (そういえば、小学校のころは新学期にもらった教科書がおもしろくて、 最初の日に結構よんでしまっていた。さすがに高校になるとそういうことは無理だったけどね。)
消化をするのに、教員の力はいらない。いや、たよってはいけない。 黒曜石のような鰹節だって、カンナをかけて薄く削ればよい出汁がでて 栄養になる。そういうような高純度の知識の塊を消化する粘りと 手法を身につけてることが大切だ。
あるテーマ、たとえば「プログラミング」っていったいなんだかわからないというとき。 こういうときはどうするか?図書館に行っての本を4,5さつ借り出す。 これらの本を閲覧室で30分から1時間くらいでザーッと目を通す。 はじめから終わりまで...、 いったいどんなことが書いてあるのだろうという好奇心をキープしながら 読み進むこと。
途中で目に付いた箇所で立ち止まるのはよいことだ。 そのあたりを重点的に読み込むのが良い。 そいう俯瞰的な視点から眺めることで、洋服のほころびが大きくなるように、 書いてあること全体がわかってくることがある。 なんだかわからなくても、大抵の場合そういうことをする前と、 した後では自分の頭のなかにあるものは大きく変化している。
良いと思った本は買う事。 何のために買うかというと、書き込むため。 感じた事、疑問、ペンより鉛筆で書き込むほうが良いと思うが、これは好みかもしれない。 (ときどき、消して書き直す事もあれば、鉛筆派となる。) 逆に、書き込みたくならなかったら、本を買う必要はないし、 振り返る事がないと思えば、書き込む必要もない。
しかし、人間の記憶には限界があるため、 読書を振り返る事は非常に有効である。
勘が身についただけでは、野生動物と同じだ。 大脳を鍛えよう。 記憶力、計画性をもって生活をすることだ。
まず、「身の丈」にあった生活をしよう! いくら「知的欲望」であっても欲望のままに生きていたのでは、 無駄な行動が多くなる。 自分の能力を過信していないか?自分の予定表を見てみよう。よくばりすぎていないか。いま、自分でやりがいのある問題を見つけるちからはあるとおもうか? 自分でその問題を解くちからはあるとおもうか?計画的に、一歩ずつ確認しながら自分の力を高められるような指標も自分で用意しておこう。
一度考えた事は言葉にしてみよう。 言葉にしたら、それは、書き留めて「頭の外に、そのように考えた事という事実記憶する」ことができる。
言葉になったことは、記号なのだけど、 記号になる前は、(自分を含めて)だれかの複雑な、 重厚な体験がその背景にある。
書き留めた言葉は、おりにふれ思い出し、 書き留めた状況や、考えた事の詳細を思い出すことができる。 このことは重要な発見や問題解決を生む可能性をもつ。
不思議なことに大事なことは、即断、即決、即納(、そして即金)ってな感じで仕事が進む。 完璧を目指すことは大切だが、完璧にするのだから時間がかかるってのはいただけない。そこにいなければサービスが成り立たないという職種でなければ、N倍の時間をかけたものに、N倍の値段がつくなんてことはありえない。例外としては、絶対的に完璧な品質のものに法外ともいえる値段がつくこと。(ただし、この値段もかけた時間の関数になっているかどうかは怪しい。)こういう現象を含めて一般化して、 物事には「収穫逓減の法則」が成り立つといわれることもある。
大きな仕事には時間がかかる。すぐ終わるのは「閉じた小さな仕事」だ。 あるいは「小さな断片としての仕事」だと考えるべきだ。 人は大局観をもって望まなければならない仕事、 ライフワーク的なテーマを持つべきだ。 いま、そういうのをもってないと思うのなら、探さなきゃね。
当たり前のことだが、作業をするときはその作業の完成イメージというものを あたまのなかにおいてはじめる。
作業の中で、完成イメージが変化することがあるがそれはそれでよい。 目標を明確な意思をもって修正することは、 自分に不利な過去を塗りつぶそうとする歴史的修正主義とは異なる。 ただ、目標を修正ばっかりしているようではもちろん「先行きは暗い」。
創造性の要求される分野では、一人で頑張ると、他の人の何倍かの仕事のできるひとがいる。 しかし、普通の作業ではそこまで差がつかない。 大きな結果を出すためには、一人ではできないことがある。
そういうときに、人間はあつまって組織をつくることになる。 人と一緒に作業をするということは、お互いに連絡しあって、情報を共有し、 効率化につとめるのが普通だ。そうでないと、おたがいに足を引っ張り合って 結果がでないということもある。
組織とは、個人の集合あるいはそれらの集合である組織の集合という階層的な形態をとるものである。 それぞれの階層には、類似性をもった組織が、並立しさらに大きな組織の要素となっている。
その構成要素である個人あるいは下部組織のそれぞれの観点からは、それぞれがかかわる立場から、上位組織のとる方策の評価がなされる。
それらの評価が異なるときに議論が必要になる。 議論は、その参加者が自己(の所属する下部組織)の立場を 事実関係として表明するとともに、他の立場を理解し、 最終的に上位組織としての利害を総合的に判断する。
議論をする理由は、複数の人が合意に達する結論を得るためである。 現在、おかれている環境を分析し、議論に参加す個人のそれぞれが 独自の立場で現状の評価を行い、構成員からなる集団として、 当面の課題に対応するための、実行可能な提案を作り出し、 検討・評価した上で次にとるべき行動を合意・決定する。
大きなテーマになると議論はすぐには、収束しない。 こういうときには、複雑な現状をすこしづつ整理することがたいせつだ。 最初はブレインストーミング的な話し合い。 そのなかで、重要なことがらをピックアップし、 その項目間の関連をまとめてゆく作業を行う。 気をつけなければいけないのは、認識したと理解したことについては 原則として後戻りをしないように、確認しながら議事を進行させてゆくことだ。 (後戻りを許すと、議論は複雑なものになり、手に負えなくなることが多い。) 議事進行を早めるのに効果的なのは、ある程度の材料がそろったところで 議長が流れを見通して、全体の骨組みを構成員に提示し、 それらに構成員が納得するような場を作っていくことだ。 ガイドがうまく出来れば議論の収束は早い。
注意をしなければいけないのは、合意を確認しながら、 議論の方向性を意識し、議案の収束にあたること。 あまり注意深くない議長が、 多くの構成員にサポートが得られない議案を提示した場合は、 収束までの時間が返って長くなってしまう。 従って、議長は、議論のながれと場の空気に敏感でなければならない。
ただ、議長は議論の流れに従って合意を得る事を最優先し、 議事をすすめれば良いというものでもない。 進行する議事が、実効性をもつことを 意識しながら、継続的に議論を整理することにより、議事進行を行なわなければならない。 (言うまでもなく、自分の意見と異なる結論に達する事も冷静に受け入れなければならない。 かつ、その結論にすら自分の責任があることを意識することも重要である。)
こどもと大人の違いは、自分の行動に責任をとるかどうかできまる。 すくなくとも、法律では年齢によって大人の資格を与え、 大人の資格を持つものに対しては自己による責任を取らせる という取り決めになっていると考える。
責任をとるということはどういうことかというと、 これは約束をまもるということだ。 約束していない行動に対しては、 必ずしも守らなければいけない制限があるわけではないが、 約束をしたら、その約束は守らなければならない。
社会の中で仕事をするときは契約書というものや合意書というものを 作るのが普通だ。金銭的にも大きな影響をもつことがら、 たとえばビジネスパートナーのような 相手との関係においてどんなことをするのかをあらかじめ きちんと決めておく。できたか出来てないのかわからないような あいまいな記述ではなく、できるだけ出来たか出来なかったかがはっきりする ような文面をつくらないとその契約書は意味をなさない。 大抵の契約書にはその約束が守れたら、どういうことが起こるのか、 守れなかったらどういうことが起こるのかをはっきりと記述しておく。
職場のなかでは、それが口約束であったりする。 小さな仕事に対して、いちいち仲間と契約書をつくって作業をするわけには いかないからだ。こういうときは、多少責任のとり方はあいまいになる。 責任を明確にする作業が本来の作業より大きくなってもしかたがない。 そういうときは、約束の不履行に対してもあいまいな対応になったりするが、 次の仕事をまかせることをためらったりといった形で影響がでてくる。
こういうインフォーマルな約束でも、 大人は子供に対しては、約束を守ることに対する過度の期待をすることは ない。しかし、大人に対しては約束を守ることはあたりまえだと考えることが 普通である。
「石橋をたたいて渡る」、「君子危うきに近寄らず」という言葉があるかと思えば、 「虎穴にいらずんば虎子を得ず」、「羹(あつもの)にこりて膾(なます)を吹く」なんて言葉がある。 多少とも不安があるとき、その不安を忘れてまで行動をする必要があるか? 話は簡単で、最善の策はなにか、それを実施し成功することによりどれだけの効果や価値があるのかということや それを回避したときにどれだけの損失があるのかということ、あるいは失敗したときに起こる損失、などということを天秤にかけることである。
ここでの評価はできるだけ、 厳密に、まじめに行うべきだ。厳密な評価が可能で、期待値が同じであれば、失敗時にかかる絶対値が大きいものや一部の人に負担がかかることを避ける。(保険というビジネスモデルが成立する要因をかんがえよう。)もし、厳密な評価がが非常にグレイな場合は、どちらでもよいということだ。場合によっては、さいころをふって決めるしかない。