活動のプロセス
 
 
人生で2度目の登山(初登山は20年前の安達太良山)
 

北海道の自然に触れたくて夏の大雪山に行った。登山口までのタクシーの車中、最近遭遇したというヒグマの話を聞く。眼前を横切った子鹿がタクシーと併走している。野生の鹿を見たのは初めてである。改めて自然の奥深くに来たことを実感し、ヒグマに対する恐怖もにわかに現実味を帯びて来た。

登山口からの斜面は8万年も前にせり出したといわれる岩でごつごつしていて、平らな部分が殆どなく、足に伝わる感触が新鮮で心地よい。意表を突くように渓流が出現し、倒木の丸太橋と飛び石をいくつも越えて渡る。均一な環境の中で久しく忘れていた「死ぬ かも知れない」という恐怖と、「姿勢を維持する」ための身体感覚をいきなり突きつけられて戸惑った。まだある。「死ぬほど腹が減る」「もう、一歩も動けない」という身体の極限状態の感覚。戸惑う気持ちとは裏腹に、この恐怖や重力や消耗に対する身体感覚が懐かしい。幼い頃にはまだあった感覚である。実感はないがもしかして太古からの感覚の記憶かも知れない。

人は忘れかけた感覚の記憶を実感するために自然の中を模索しているような気がする。自然に触れるとはそういうことだと思う。自然の中で小鳥や虫たちを眺めていて感じるのは、生命を繋いでいくためだけの営みがあるということ。それは循環する自然の一部としての営みである。 人は現代の社会に適応して生きている。本来、生命を繋いでいく活動のプロセスには、概念としての労働と共に恐怖、高揚感、歓喜、協調、消耗などといった祝祭的なムードに伴う身体感覚が内包されていたはずだ。人は現代社会の均一な環境の中で、生命を繋ぐ活動のプロセスとそれに伴う身体感覚を、様々な形に置き換え再構築することでバランスをとりながら適応している。しかし、日常の中で全てが置き換えられるわけではなく、日常から漏れた活動のプロセスと身体感覚を補填し実感するために新たな活動を模索する。現代社会が生み出した大量 のプロダクトやシステムの根底には、人が模索している新たな活動を提示するという動機と必然性があったと思う。

時代と共に人の生活は変わる。生活時間の多くをパソコンに向かう人と土に向かう人では、再構築するものも補うものもそれぞれ異なる。しかし、おのおのが活動のプロセスを再構築し漏れたプロセスを補填するという適応の構造は同じである。そこには、再構築による全体性と漏れたものの部分が対をなして補填し合う事で完結する関係がある。人や社会に対して新たなものを生み出す作業は、対象の中にあるシステムの構造と関係を明らかにして解きほぐすことで発生する、新たな活動を探る ことから始まる。

アーティストとして、デザイナーとして社会や人との接点があるものを作り出す拠り所に、忘れかけた身体感覚の回復がある。そして忘れかけた身体感覚の行方を回復出来るような、全く新しい活動のプロセスを提示し、発信していきたい。